「――――そうして死んだ私は、ある事を思い浮かべたんですよ」
ぽつぽつと、言葉を綴る。
「この先何十年、何百年と経てば、この腐った世界も変わってくれるのかと……」
苦笑いしながら、そう言葉を発した。
「高見の見物、させてもらおうじゃないかってね……」
それは、今となって見れば、ただの悪あがきだったのかもしれない。あの状態で生涯を終えたくなかった。もっと先まで見ていたかった。そういった我侭の変容にすぎなかったのだろう。しかし彼は、その道を選んだ。
「そして私は悪魔と契約して、‘あるモノ’と引き換えに永遠の命を手に入れました」
「……‘あるモノ’って……何?」
呟くようにしてそう訊ねたアッシュに、ジズはゆっくりと向き直ると、
「――それはね……」
瞬間、ジズの体が霞み、ふわりと浮き上がった。
〈私自身の‘変化’です〉
鼓膜からではなく、頭の中に直接響いてくるようなその言葉に、戦慄した。
〈私は‘私’という時間と引き換えに、永遠の時を約束されたんです〉
半透明になったジズが、アッシュを見下ろすようにして彼の斜め上に浮いていた。その赤と青の瞳は、アッシュがこれまで見た事もない程の悲しみを、その内側に湛えていた。
〈普通、霊はどんな姿にも化けられるし、普通の人間がそうであるように、時が経てば、昔の記憶は薄れていく〉
幽体化を解き、絨毯に足を下ろして、言葉を綴る。
「ですが私は違う。何があっても、この姿は変わらない。生前の記憶も忘れない」
そう言って、また悲しげな微笑みを浮かべる。その表情を見る度に、アッシュは胸の奥の何かが絞られるような錯覚に捕らわれた。
自分が彼を嫌っていた理由。
‘死’など、自分達から見れば恐怖以外の何物でもないのに、自分にはもうソレが無いからと言って、何も考えずに飄々としているような笑顔。その笑顔を見る度に、背中に虫唾が走ったものだ。
しかし、今彼が浮かべている微笑は何だ?
自分はこれまで生きてきた中で、これ程までに悲しい笑顔を見た事が、果たしてあっただろうか? もしかしたら、今まで彼が貼り付けてきた例の笑みは、‘仮面’だったのかもしれない。
己の心の内を、誰にも悟られまいとして貼り付けてきた、仮面だったのかもしれない……
アッシュがそんな思考を巡らしている内に、ジズは一息ついて、
「この右目の赤は、私の‘罪人’の証だから……あの記憶は過去からの戒めだから――私は永遠に持ち続ける事を誓ったんです」
しばし、静寂が流れた。
窓の外から、鳥達の囀りが聞こえてくる。
「さて、もう一つ、お話していない事があります」
ゆったりとした声でそう言うジズに、アッシュは軽く首を傾げた。
「私の本当の名前は、‘ジズ’ではありません」
「!」
はっとして顔を上げると、彼はどこかやりきれないような笑みを浮かべていた。
「お話した通り、私の出身はヴェネツィアで、ジズ、というのは、英語ですよね?」
「あ……」
確かにその通りだった。
今彼の存在を表す‘ジズ’という名前は英語だ。しかし、今までの話を聞く上で、それは有り得なかった。ヴェネツィアの貴族だったのに、その名前が外国語というのはオカシイ。つまり、偽名。
「じゃあ……本当の名前は…………?」
おずおずと、しかし何処か好奇心を含んだ声でそう訊ねたアッシュに、彼は簡単にこう言った。
「解りません」
「……え?」
「私は悪魔と契約した時、己の変化と、そしてもう一つ、自分の名前を売り渡しました」
きょとんとしたアッシュに、ジズは苦笑して、
「これは私自らが望んだ事なのです。それに、名前というのは、ある意味最も強い言霊なんです。それを悪魔に売ったという事は、即ち後戻りを完全に封じたという事」
この人は、そこまでして自分を縛り付けて、一体何を得ようとしているのか――
アッシュはそう思考を巡らせて、まじまじと彼を見つめる。
「それなら……‘ジズ’っていうのは……何で……?」
その問い掛けに、彼は、一旦目を伏せ、
「英語は、レリスの国の言葉でした」
「……!」
「英国からやってきた彼女は、私にしばしば英語を教えてくれました。それで……今の私の状態は、調度うたた寝している時と、よく似ているように思えたんです」
言って、また悲しげな笑みを浮かべる。
「死んでしまったのに、まだ夢を見ようと足掻いている。過去から未来へ希望を託して――そんなもの、ただの悪あがきでしかないのを解っていながら、それでも完全なる眠りに落ちようとはしない。こくりこくりと、うたた寝している状態によく似ているなって……だから……私は彼女の――レリスの国の言葉で、`Zizz’と名乗る事にしたんです」
それは、一種の弔いだった。自分の国の言葉ではなく、わざわざ彼女の国の言葉で名乗ろうと決めたのは、レリスへの弔いと、彼女の自分に対する呪縛としてだった。
「…………お話は、これでお終い。変ですね……どうして貴方に、ここまで話してしまったんでしょうね……」
七百年間、誰にも話した事がなかったのに――
アッシュは、そんなジズを無言で見つめていた。だが、その瞳は長い前髪に隠れてこちらからは窺えない。一体彼は、ここまでの話を聞いて何を思っただろう? 今、どのような表情で自分を見ているのだろう?
軽蔑の顔か、嘲笑か――それとも無表情か……
「――長話に疲れましたでしょう? 今、お茶を淹れますね」
「ジズ……」
踵を返したジズの肩を、アッシュが掴んだ。
「さっき……八つ当たりしたお詫び……持ってきたんスよ」
「?」
ポツリとそう言うと、アッシュはジズを追い越してドアの前まで進むと、その足下に置いてあった、小ぶりの植木鉢を拾い上げた。
「――あ………」
それは、真っ赤な薔薇の鉢だった。
まだ花は小さいが、それでも懸命に咲き誇った、深い紅の薔薇だった。
「ほら……ジズの家……裏に凄い庭園あるだろ? だから……少しは喜ぶかなって」
俯き加減にそう呟いて、鉢を手渡す。
「……有難うございます」
ゆっくりとした動作で鉢を受け取り、胸に抱いた。そして無言で、その薔薇を見つめている。
「俺……もう一つ、貴方に聞きたい事があるんスよ」
「……何でしょう?」
「あの庭園……本当に凄いっスよね。あれ、メバエやキリコじゃなくて、全部ジズが一人で育てたって聞いたんスけど……本当っスか?」
「…………ええ」
頷いて、軽く微笑を浮かべる。アッシュはそんなジズに目を細めてから、
「何で……そんなに庭造りが好きなんスか?」
その問いに、ジズは鉢を手近にあったテーブルに丁寧に置くと、
「こんな……命のない私でも、命を育む事が出来ると思えて……嬉しいから……」
ジズがそう答えた瞬間、アッシュは彼を抱きしめていた。
「――アッシュ……さん……?」
抱きしめる腕に、力が篭る。
自分はどうかしていた。今になって、ようやくそれに気付いた。
彼の事を、自分にはもう死がないから、何も考えず恐れず、死に怯える自分達を嘲っていたとばかり思っていた。自分がもう死んでいるという事を、むしろ誇っているようにすら見えた。だから自分は彼を毛嫌いしていた。
しかしそれらは全て、自分の勝手な思い込みでしかなかった。
彼は、今生きている自分達よりもずっと、‘死’を恐れている。死ぬという事がどれほどの恐怖か、彼は身をもって体験している。そして自分を過去の過ちで縛り付けて、常に背中に背負った十字架の重みに苦しんでいる。それを周りには気付かれまいとして、いつも微笑みの仮面を貼り付けている。
その内側では、常に涙を流しているというのに――
「……過去に人を殺したからとか、目が赤いからとかで……俺は貴方を軽蔑したりしない」
「!」
そう言葉を発した瞬間、ジズの体がビクリと強張った。
アッシュは、ようやく気付いたのだ。
自分はずっと、彼を毛嫌いしていた。そして心の内で、最も意識していた。それは、毛嫌いする以前から、あの七回目のパーティの時に、初めて見たその時から――
惹かれていたのだ。ずっと……。
「ジズ……ごめん」
「何……を……?」
思いがけない行動と言動に、ジズは困惑する。
自分は、勝手だ。
あれだけこの人に嫌な思いをさせておいて、散々苦手だ何だと言っておいて、今更気付いた本心を打ち明けようとしている。
「……ジズは……それだけ悲しい過去に縛られて、今まで苦しんできたのなら、もうそろそろ、許されていい頃だと思うよ」
「そんな事……有り得ません。だって……だって私は」
また自分を縛り付ける言葉を吐き出そうとしたジズを、アッシュは、こう、遮った。
「だって俺、ジズがずっと好きだった」
そう言い終わると同時に、アッシュは彼の唇を、自分の唇で塞いでいた。
ジズは、その空色と薔薇色の瞳を、一杯に見開いた。
何て勝手な言い分だろう。
しかし、これが本音だ。自分は、これ以上彼が陰で苦しむ姿を見たくない。全くもって自分勝手な言い分だった。しかし、そうと解っていても止められない、渇望。
独占欲。
もう、離さない。誰にも渡さない。
これ以上、この人を苦しめるモノは許さない。他の何にも縛られず、囚われず、自分だけのモノでいてほしい。
もう、止まらない。
「…………アッシュさん……?」
少し震えの混じった声で名を呼ぶジズから、アッシュはゆっくりと、抱きしめていた腕を解いた。そして、彼の色違いの両眼を真っ直ぐ見据え、
「狼は、一度狙った獲物は必ず仕留める」
「……え?」
更に困惑し、萎縮したようにアッシュを見上げる。そんなジズに、彼は柔らかく微笑んで――
「だから、必ず貴方を、俺だけのモノにしてみせる」
そう言い残し、軽く頭を下げてジズの部屋を後にした。去り際に、礼儀正しく『お邪魔しました』と断ってから。
「…………」
ジズは、力なくその場に座り込んだ。
何がどうなったのか、まだ全然解らない。それを理解するには、もっと時間が必要だろう。ただ、長い前髪の奥から自分を見つめた、あの真っ直ぐな、自分のそれとは違う赤い瞳の眼光だけが、脳裏に焼きついたように離れない。そして数分後、気がついたように手を叩いて合図をした。
「……………メバエ……お茶をお願いします」
その合図に応えてやってきたメバエにそう言いつけ、ジズはまたふらふらとベッドに崩れ込む。紅茶を淹れるのはジズの楽しみの一つだったが、今はとても自分で淹れられる状態ではなかった。
暫くして運ばれてきた紅茶を口に含み、渇いて張り付いた喉を潤す。
もう、アッシュに自分の過去を語り始めてから、随分な時間が経過していた。
何故、これまで親友であるスマイルにもメメにも話さなかった過去を、アッシュに洗いざらい話してしまったのか、理由はよく解らない。
スマイルにこんな暗い話題を振る気は全く無かった。余計な不安を与えたくもない。メメは元々冥府の使者だ。自分からは何も話していないが、恐らく自分が人殺しである事は、最初に自分を見た時から悟っていただろう。その上で親友として付き合っているのだから、良い友人だと思う。
しかし何故、そんな二人にも話さなかった過去を、アッシュには話してしまったのか――
それは恐らく、自分の右目を見た彼が、これまでの誰とも違う言葉を言ったからなのだろう。
『宝石みたいに、綺麗な瞳だと思ったから……』
「…………」
くしゃり、と前髪をかき上げて、両目を閉じる。
もしも、この右目をスマイルやメメに見せたら、彼らは何と言うだろうか?
拒絶しない、という保障は何もない。だからこそ、自分は未だに、あの二人に明かしてはいないのだ。二人を信じていない、という訳ではない。だが、怖い。
「……ただの……臆病者ですね……」
自嘲気味に微笑んで、窓の外に目をやる。
鳥達は優雅に空を舞い、美しい声で歌っている。
この、自分の左目と同じ、蒼い空で。
「…………」
ふと、テーブルの上に視線を移した。そこには、先程アッシュから貰った赤い薔薇の鉢が、変わらず美しく咲き誇っている。
そうだ。つい数日前、庭園の薔薇のアーチがウォーカーの隕石のとばっちりを受けたせいで滅茶苦茶になってしまったのだ。折角だから、この薔薇を新しくアーチとして育ててみよう。
そう思い至り、ジズはそっと、その小ぶりの鉢を手に取った。
「……有難うございます。アッシュさん」
ぽつりと呟くと、目を閉じて薔薇の香りを吸い込んだ。
甘く優しい、薔薇の香り。
そんな中、脳裏に蘇る過去の惨劇。しかし、今それを思い返しても、不思議と恐怖は感じなかった。それは、この真っ赤な薔薇の香りが、あまりにも優しく彼を包んだからだろう。
ゆっくりと目を開けて、鉢をしっかりと、しかし優しく胸に抱いた。
「大切に……育てますよ………」
前のアーチより、ずっと美しく咲いてくれるでしょう――……
−END−
終わりました;;やっと終わりました;;
長すぎて本当にごめんなさい;でも、これでジズの過去話詳細説明は終了です。時代背景が一番面倒な話になりました。疲れたですorz
ジズの過去話+、アッシュとジズの始まりの物語でもあります。本文読んで頂いて解ったと思いますが、アッシュは当時はジズさんの事が好きだった訳ではなかったのです。この話でキッカケが出来た、ってか自分の気持ちに気付いたって事にしました。(かなり強引でしたが;)
で、現段階では、まだカップルにはなってません。まだアッシュの片想いです。まぁ、ジズさんも少し惹かれたみたいなんですけどねぶっちゃけ。これからアッシュの猛烈アタックが始まる訳ですよ。ウザがられるくらいに(笑)
次回の話はラズの説明です。暫く説明話が続きそう;